2020年05月16日

共に考えよう「Q&A」(6)

 (質問)仏間の仏壇の上に掲げてる「無量寿」の額は「はかることのできない命」と解釈したらよいのでしょうか。解説して下さい。
(回答)大変大事な質問事項ですので、少し丁寧にお応えさせて頂きます。
 まず「無量寿」とは「無量光」とともに、私達のご本尊「阿弥陀さま」の別名です。
 もともと「阿弥陀(アミダ)」とは、インドの古い言葉サンスクリット語の「アミターバ」「アミターユス」を音写したものです。「アミターバ」とは無限の光、「アミターユス」とは無限の寿命という意味で、中国で「無量光」「無量寿」と訳されたのです。
 それでは「無量光」「無量寿」とは、どういう意味なのでしょうか。
 言葉の意味そのものは「計り知れない光と寿(いのち)」ということになりますが、それは阿弥陀さまの働きを表しているのです。  阿弥陀さまは、あらゆる衆生(凡夫と呼ばれる私たちのこと)を救済したいとの願いを建て、その願いを完成させて仏と成られました。
 したがって、その働きは「いつでも、どこでも」なのです。
 言い換えれば、「いつの時代でも、どこの場所でも」ということで、それは「時間」と「空間(場所)」に限りがないという働きで、「寿」は時間を表し、「光」は空間を表しますから、「無量寿」であり「無量光」なのです。
 また「寿」とは「慈悲」を表す言葉でもあり、「光」は「智恵」を表す言葉でもあります。阿弥陀様の衆生救済は、「愚かな私をそのまま抱き取る」という「慈悲」の働きであり、「その愚かさを破 って正しい世界へと導く」という「智恵」の働きでもあります。その二つの働きに「限りが無い」という意味にもなります。
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共に考えよう「Q&A」(5)

(質問)「因果の道理」は仏教の根幹と聞いておりますが、一体どういう教えですか?
(回答)物事が起こる原因となるものを因といい、それによって引き起こされた結果を、果といいます。ただし、仏教では、因には直接原因である「因」と、因を助成する間接原因の「縁」とがあるとし、この「縁」も重要視します。
 例えば植物の種(因)があっても、水・土・熱・空気といった(縁)がなければ芽(果)が出ないようにです。
 したがって因果とは、正確には「因縁果」といいます。
 あらゆる現象はこの因縁果の法則によって成り立つことを「因果の道理」「縁起思想」と呼び、仏教の中心思想で根本を成すものです。
 この原因と結果の関係については、現代の科学文明でもすでに証明されていますが、ただし自然科学の世界では単なる物事の事象としての捉まえ方であります。
 お釈迦様は私達の生も死も含めた根本的な存在の問題として説かれました。
 すなわち、この世のことすべてが因縁のみちびきにより生じているにもかかわらず、私達はついつい自己の都合に固執して結果を求めようとする。そこに苦しみや悩み、果ては争いまでもが生じる。
 これを煩悩と呼び、その解決方法をお釈迦様は示されたのです。それが仏教です。
 もちろん、私達がお念仏により浄土へ往生させて頂けるのも、信心を正因とする因果の道理に基づくものです。

◇◇◇◇◇◇

(質問)月参りをする理由を教えて下さい。
(回答)毎日の朝夕にお内仏に参拝されていると思いますが、故人の命日にお手次の寺院にお願する月参りは、故人を偲び他力本願のお念仏を頂くためのより丁寧にお参りする機会です。
 ご家族皆様でご一緒にお参りいたしましょう。
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2020年01月20日

共に考えよう「Q&A」(4)

(Q)仏の教えによって「生きていく上での苦しみ」から救われると聞いたことがありますが、本当にこれが真実であるか疑問に思うことがあります。
(A)「生きていく上での苦しみ」からの救いを、生老病死から逃れることや、自分の欲望を満たすことと考えるならば、仏教で救われることはないでしょう。
 仏教は人生の上だけでなく、もっと根本的な解決を目指します。
 「疑問に思う」とのことですが単に感覚的な思いであるならば残念です。是非とも真実を求めてまずは聞法して下さい。連研がその機会になればと願います。

(Q)私は、13年前に母を、そして今年に父を亡くしました。父母の夢を見た時元気な声が聞けました。夢を見る事はいい事でしょうか?
(A)「夢」は一般的に深層心理の現れと考えられています。
 親鸞聖人の生涯においても、六角堂での聖徳太子の夢(六角夢想)など、夢が大きな役割を果たしています。
 父母の夢を見ることは貴方の深層心理に父母がおられるということで良いことではないでし ょうか。ただし、宗教的なものとして捉える必要はないでしょう。

(Q)生まれ変わるということが本当にあるのでしょうか?
(A)お釈迦様は迷いの世界を「六道輪廻(ろくどうりんね)」として示されていますが、ご質問の意図は「私が死んだら何かに生まれ変わることがあるのでしょうか?」ということだと推察します。
 実はこの質問はお釈迦様の時代でもあったようで、「有無の見」といって死後の世界が有るのか無いのかとの議論です。
 お釈迦様はどちらにかたよることも否定されました。「縁起の道理」からいえば現在の行いがつぎの私を作ることは間違いなく、大切なのは今の私の生き方に最善を尽くすことであると説かれたのです。私たちの最善の生き方は、南無阿弥陀仏の願いの中で生きることです。
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共に考えよう「Q&A」(3)

(Q)阿弥陀様って何ですか?
(A)お釈迦様は八万四千といわれるたくさんの法を説かれましたが、煩悩の世界に苦悩しそこから抜け出せない私達が唯一救われる道としてお示しになられたのが、阿弥陀という仏様の本願による救いです。
 その阿弥陀仏の本願は仏説無量寿経というお経に示されており、お釈迦様がこの世にお出ましになられた本来の目的は、このお経を説くことにあったのだと親鸞聖人は明らかにされました。
 なお、「阿弥陀仏」はサンスクリット語の
  アミターバ(無限の光)
  アミターユス(無限の命)
を音写したもので、訳語としては「無量寿如来」や「不可思議光如来」等と呼びます。

(Q)9歳の時に親に連れられて出向いた法話の席で、仏教の真理と世の無情を感じました。しかしながら前世の業により、未だに信心決定をいただくことができません。現在還暦を過ぎ、真面目に過ごしてきたものの、日々の生活に追われ、欲望のままに暮らしてきたことに改めて反省している次第です。どうすれば信心決定を頂き晴れた心になれるのか、このまま来世まで悪い心を持っていかなければならないのでしょうか。
(A)「信心決定」を、自分で得ようとなさっているようですが、阿弥陀様の「願い」とは真逆になります。
 親鸞聖人は、地獄しか行きようのない自分に気付かれ、そのどん底の中で「すべてをまかせよ」との阿弥陀様の願いに出会われたのです。
 それは自分でつかみ取った信心ではなく、阿弥陀様からふり向けられた信心です。
 さらに、そのことを素直に悦べないのもまた煩悩のせいであり、だからこそ「煩悩具足の凡夫を救う」という本願の働きが間違いないのだと確信されたのです。
 「日々の生活に追われ、欲望のままに暮らしてきた」ことのない人がはたしているでしょうか?あなたが救われなければ誰も救われない事になります。肩の力を抜いて阿弥陀様の呼び声を素直に聞くことが大切です。
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共に考えよう「Q&A」(2)

(Q)「帰依すべきは仏であり、神々は帰依の対象ではない」の意味を説明願います。
(A)帰依とは「頼りにする」「まかせる」という意味です。阿弥陀さまは私のいのちの行く末を「すべてまかせよ」と仰るのであり、その他に「まかせる」対象はないということです。仏教は「仏さまの教え」であるとともに、私が「仏に成る教え」でもありますが、神さまの世界に「神に成る教え」はありません。

(Q)「仏さまには感謝をし、神さまにはお願い事をする」と聞きましたが。
(A)ご質問にある「願い事」が欲望の延長上にあるものなら、仏に対しても神に対しても間違いでしょう。上手くいけばさらに欲が出ますし、上手くいかなければ「神も仏もあるものか」と愚痴が出ます。いずれにしても「煩悩」の世界です。煩悩の根本問題を解決するのが仏教であり、それを約束して下さる阿弥陀さまに報恩感謝する世界が浄土真宗です。

(Q)神さまを粗末にすることはできないので、人間の思いを超えたものとして、大切にする心は持 ってもいいのでは? また、神社は村全体の行事として祭事をされており、ある程度の参加は仕方ないと思うが。
(A)親鸞聖人は「神」を帰依の対象ではないと戒められていますが、「あなずってはならない」とも示されています。私たちの自然の恵みの「象徴」として大切にすることは良いことではないでしょうか。また「村の鎮守の神さま」は、地域連携・地域文化継承の場所として大切だと思いますが、私のいのちの根本問題を尋ねるお寺(浄土真宗)とは別のとらえ方が必要でしょう。

(Q)土地の有効活用について悩んでおり、時々神様にお伺いに行 ってますが無意味でしょうか。
(A)神様に何を伺おうとされているのでしょうか?縁起の世界からいえば、有効活用するためにはその論理的努力(専門家への相談等)こそが必要であり、その努力を神の前で誓うというようなことはあっても、結果を神さまに委ねることはできないでしょう。
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2019年04月19日

共に考えよう「Q&A」(1)

 2014年より法輪寺住職が坂田組の「連研」を担当しており、毎回参加者(70数名前後)から質問を募って文書で回答しています。その質問数は既に150件を超え、質問の中にはご法義上あるいは聞法上において大変大事な内容も多くあります。
 つきましては、梅鶯仏壮会員の皆さまにも本会報紙面を通じてご紹介をしていきたいと思います。


(Q)「仏教」とはどのような教えでしょうか?
(A)仏教は「生老病死」を人生の「苦」と捉え、その「苦」を解決するための教えです。
 ただし大事なことは、「生老病死」そのものが苦であるとは説きません。生まれ、老い、病み、そして死ぬこと自体は自然なことです。
 ところが私たちは、それを素直に受け入れられません。「生老病死」のみならず、ほかにも自分の思い通りにならない事が沢山あります。
 そこに「悩み」や「苦しみ」が生じ、これを「我執(がしゅう)」「煩悩(ぼんのう)」と呼びます。
 仏教はそのとらわれの心から解放された安らぎの世界(悟りの世界)を目指します。
 したがって、仏教は無病息災や金儲けや自分の欲望を満たすための教えではありません。


(Q)「浄土真宗(南無阿弥陀仏)」の教えとは?
(A)自らの力で煩悩を断ち切って、悟りを得ようとする世界を「聖道門(しょうどうもん)」といいます。
 対して、すべてを阿弥陀様の「本願」にお任せし、お浄土に生まれ悟りを得るのが「浄土門」、「浄土真宗」です。
 親鸞聖人も20年間比叡山において厳しい「聖道門」の道を歩まれたのですが、どうしても煩悩を断つことができず、絶望の淵の中で阿弥陀様のご本願に出会われました。
 親鸞聖人は、すべての者が等しく仏に成ることができる唯一の道が南無阿弥陀仏であり、お釈迦様が世に出でられたのはその教えを説くためであったとお示しになられました。
posted by ryoho at 10:14| お同行からの質問(Q&A) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする