2018年10月21日

梅鶯仏壮会報第151号・152号より

浄土真宗のみ教え「他力本願」
*拝読「浄土真宗のみ教え」の14頁をお読み下さい。

 私たち日本人が使う言葉の多くに仏教用語が使われていることはご存じの通りですが、残念なことに本来の意味とは違う意味で使われている言葉もいくつかあります。
 その誤用の代表例が「他力本願」です。

○「他力本願」の誤用
 親鸞聖人が「他力といふは如来の本願力なり」と仰せの通り、他力とは阿弥陀さまであり、本願とは私達を救いたいという阿弥陀さまの願いです。
 つまり、「他力本願」とは阿弥陀さまが私たちを救うはたらきのことを意味するのです。
 ところが現在では他力本願を単に「他人任せにすること」と解釈し、「棚からぼた餅」「人のふんどしで相撲をとる」「努力をしない」といった良くない意味合いで使われています。
 時には「他力本願ではダメ、自力本願でないと」といった使われ方までされますが、「自力本願」となると、誤用と言うよりもその言葉自体があり得ないことになります。
 また自然の恩恵に生かされて生きていることを「お他力さんで」と表現される方もおられますが、この言葉も「他力本願」とは、はっきり区別する必要があります。
 つまり「他力本願」とは私達を救いたいと願われる阿弥陀さまのはたらき以外の意味はないのです。

○「自力」と「他力」
 このように、現在では誤用が多い「他力」という言葉ですが、もともとは「自力」に対応する言葉として曇鸞大師が使われました。
 それは南無阿弥陀仏のみ教えを私達が正しく領解(受け入れる)す
るための言葉としてお使いになったのです。
 南無阿弥陀仏のみ教えは、救われるはずのない私が、阿弥陀さまの根本の願いを聞いて、往生浄土の道をすべてお任せするという教えです。
 これほどすぐれた教えはないのですが、けれど人間の論理では理解しがたいものであるため、なかなか素直に受け入れることができません。
 仏説阿弥陀経には、「難信の法」(信ずることが難しい教え)とさえ説かれています。
 その難しい理由が二つ示されています。一つには、「救われがたい人がすべてを任せるだけで救われる」という教えが、易しく尊くすぎるためにかえって信じがたいということ。
 そしてもう一つは、「罪福信ずる行者は、仏智の不思議をうたがいて」と示されるように、本願に疑いを挟むばかりに、自分の判断で念仏以外の修行によって仏に成ろうとする
ことであります。
 曇鸞大師は、すべてを任せよと呼んで下さる阿弥陀さまを疑い、仏と成るだけの善根を積むことができないにもかかわらず、念仏以外の行為で仏に成ろうとすることを、「自力」と呼び厳しく戒められました。
 そしてその「自力」に対して、すべてを阿弥陀さまに任せきる本来の姿を「他力」と呼ばれたのです。

○「他力」の奥義
 曇鸞大師はこの「他力」の深い意味を「他利利他」という言葉でお示しなされています。
 「他利」とは「他者である阿弥陀さまが私達を救う力」、「利他」とは「阿弥陀さまが他者である私達を救う力」のことです。
 すなわち「他力」とは、どこまでも阿弥陀さまと私との関係での言葉です。
 なお、浄土真宗において「自力」を否定するのは、あくまで浄土往生に関してであり、世間の日常生活の中で努力することを否定するものではありません。日常生活で努力することは大切なことです。

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 現在は「誤用」されることの多い「他力本願」という言葉ですが、もともとは阿弥陀さまの本願を疑い、自らの罪福を信じて念仏以外の行為で仏に成ろうとする「自力」の行いを戒められ、その「自力」に対応する言葉として曇鸞大師が使われた言葉でした。
 したがって「他力本願」と言う言葉は、「阿弥陀さまの根本の願いを聞き、往生浄土の道をすべてお任せする」という意味で、浄土真宗のみ教えにおいてはとても大切な言葉なのです。

○磁石のたとえ
 そこでその阿弥陀様の「他力本願」について、さらに味あわさせて頂きたいと思います。
 親鸞聖人は教行信証の中で阿弥陀如来の他力のはたらきを「なお磁石のごとし」と示しておられます。
 この磁石のたとえを私が敬愛する原田弘宣師が法話の中でつぎのように述べておられます。

『親鸞聖人は阿弥陀如来の大悲を磁石に喩え、つぎに「本願の因を吸うが故に」と救われる側の種を示しておられます。磁石が釘を吸引するとき、釘に磁気を吹き込んで吸引します。これを物理学では「磁化する」と言うそうですが、阿弥陀如来は私達に、阿弥陀如来の大悲心を吹き込んで下さるのであります。私の所に入り込んだ大悲心即ち仏心を信心と言います。私が仏になる種は、私が信じるような信では駄目なんです。私が仏になる種は、仏心以外にあり得ません』

 釘が磁石に吸い寄せられるのは、釘自体の力によるものではありません。
 どんな立派な釘でも自分で動くことはできませんけれども、ひとたび磁石の磁場に入った時には、どんな釘でも平等に吸い寄せられます。
 それは、釘自体はなんら変わらないのですが、磁石が鉄の中に入り込んで、鉄を磁石の性質に変化させ(磁化)た上で、吸い寄せられるからなのです。
 すべてが磁石の働きによるものです。
 釘が磁石に吸い寄せられるように、私達は阿弥陀様に吸い寄せられます。
 阿弥陀如来の本願の働きが、まさに磁石が釘を引き寄せて、中身を磁石に変えるように、如来の仏心が、聴聞によって私の中に吹き込まれ、凡夫が凡夫のままで必ずさとりを開く身とさせて頂きます。
 これこそが「他力本願」なのです。

○自信教人信
 さらにもう一つ磁石について味わい深いことがあります。
 子どもの頃、磁石に吸い寄せられた釘につぎつぎと釘をつなげて遊びました。
 磁石に磁化された釘は、別の釘を磁化して吸い寄せることができるのです。
 この様子は見た目には釘の力によって別の釘を吸い寄せている様に見えますが実際はすべてが元の磁石の働きによるものなのです。
 それが証拠に、最初の釘を磁石から切り離した途端に、すべての釘がバラバラになってしまいます。
 浄土真宗の念仏者の大事な姿勢に「自信教人信」という言葉があります。
 この言葉は善導大師がお示しになられ、親鸞聖人は「みずから信じ、人を教えて信じしむ」と釈しておられます。
 浄土真宗はお念仏を悦ぶ人(自信)の姿を見て、その人が念仏者に育てられていく(教人信)という世界です。
 ただしこれも、けっして人が人を育てているのではなく、すべての釘が元の磁石によって吸い寄せられているように、阿弥陀様の大悲そのもののはたらきによるものであります。

 例会住職法話より


2017年09月15日

梅鶯仏壮会報第143号・144号より

浄土真宗のみ教え「限りなき光と寿の仏」
*拝読「浄土真宗のみ教え」の12頁をお読み下さい。

 「限りなき光と寿の仏」とは、阿弥陀様のことですが、本章では阿弥陀如来という仏様はどのような仏様かということが述べられています。

○法蔵菩薩
 法蔵菩薩とは、阿弥陀如来が仏となる前に修行されていた時のお名前です。
 このことは浄土真宗の根本所依の経典であります「仏説無量寿経」に詳しく説かれていますが、要約しますとつぎのようなことです。
 「お釈迦様よりもはるか昔に、一人の国王が世自在王(せじざいおう)という師の説法を聞き、大きな喜びに包まれ、自らも仏道を極めようと決心し、王位を捨てて法蔵菩薩と名のられました。
 菩薩とは『悟りを求めて努力する人』という意味ですが、法蔵菩薩はその後、はかり知れないほどの長い時間をかけて修行を重ね、衆生を救済したいという慈悲にもとづく四十八の願いを立て、その願いを完成させて『阿弥陀如来』となられたのです」

○阿弥陀如来
 阿弥陀如来は、あらゆる世界、あらゆる時代のすべての人たち(衆生)を救い取って下さる仏様で、「阿弥陀如来」というお名前はその働きを表すお名前なのです。
 ☆阿弥陀(アミダ)→アミターバ→無量光
          →アミターユス→無量寿
 もともと「阿弥陀(アミダ)」とは、インドの古い言葉であるサンスクリット語の「アミターバ」と「アミターユス」を音写したものです。
 アミターバとは「無限の光」、アミターユスとは「無限の寿命」という意味で、中国では、「無量光」「無量寿」と訳しました。
 よく「無量寿」や「無量光」という言葉や字を目にしますが、どちらも「阿弥陀如来」の別名なのです。

○いつでもどこでも
 それでは「無量光」「無量寿」とはどういう意味なのでしょうか。
 言葉の意味そのものは、「計り知れない光と寿(いのち)」ということになりますが、これは阿弥陀様の働きを表しています。
 阿弥陀様は、あらゆる衆生(凡夫と呼ばれる私たちのこと)を救済したいとの願いを建てられ、そしてその願いを完成させて仏と成られました。
 したがって、その働きは「いつでも、どこでも」なのです。
 言い換えれば、「時代や場所が変われば救いません!」では、阿弥陀様のはたらきとはなりません。
 「寿」は時間を表し、「光」は空間を表します。
 したがって、「無量寿」であり「無量光」であるということは、「いつの時代でも、どこの場所でも」ということになるのです。

○「智恵」と「慈悲」
 また「寿」とは「慈悲」を表す言葉でもあり、「光」とは「智恵」を表す言葉でもあります。
 阿弥陀様の衆生救済は、「愚かな私をそのまま抱き取る」という「慈悲」の働きであり、「その愚かさを破って、正しい世界へと導く」という「智恵」の働きでもあります。
 この二つの働きにおいても、阿弥陀様の働きには「限りが無い」ということになるのです。
 なお、「如来」とは、「人々を救うために、かくのごとく来たりし者」という意味ですので、「阿弥陀如来」とは「人々を救うために、限りのない働きをするために来られた仏さま」ということになります。

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 真実の救いとは「いつでも、どこでも」であって、時間と空間(場所)に限り(制限)があってはなりません。
 阿弥陀とは、「アミターバ」「アミターユス」というサンスクリット語で、「無量光(どこでも)」「無量寿(いつでも)」のはたらきであり、「智恵」と「慈悲」のはたらきでもありました。
 「南無」とはサンスクリ ット語の「ナモス」で「すべてをお任せします」という意味ですから、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀様のはたらきに、すべてをお任せします」との受けとめです。
 親鸞聖人がその味わいを詠まれているのが、本章に記載されている和讃です。

  十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる

○十方の衆生とは
 まず「十方」とは、東西南北に東南、東北等の間を含めた八方、それに上方、下方を加えて十方と呼び、すべての方角を指します。
 したがって、十方微塵世界とはあらゆるどんなちっぽけな世界でもということです。
 そのどんな世界においてでも、念仏を悦ぶ衆生であれば、必ず阿弥陀様は見ていて下さるというのです。
 ここで深く味わいたいことは、「あらゆる世界の衆生」とは、この私が間違いなく含まれているということです。
 阿弥陀さまが「十方の衆生」と仰るのは、あの人のことでもこの人のことでもなく、まさにこの私のことを見ていて下さるのです。

○追はえとり、迎えとり
 そしてその阿弥陀様は「摂取不捨」と誓って下さいます。
 親鸞聖人は和讃三行目の「摂取してすてざれば」の部分に注釈(「左訓」といいます)を付けておられます。この注釈が実に味わい深いものです。
 それは、「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はえとるなり。摂はをさめとる。取は迎えとる」というものです。
 ずっと以前のことで、まだ京都駅の新幹線ホームに柵がなかった時のことですが、両親に連れられた小さな男の子が、突然、親が手を離した隙にホームを駆けだしたのです。
 男の子がホームから転落したらひとたまりもありません。
 親は必死で追いかけるのですが、子どもは面白がって益々逃げます。
 父親が追いかけ、母親が迎え取るかたちでようやく掴まえることができましたが、子どもは懸命に親の手から逃れようとします。
 けれども今度は親は二度と離すことはなく事なきを得ました。
 私の生き様をよくよく振り返れば、煩悩の世界に迷い、阿弥陀様の救いの手から逃げ惑っているような生活です。
 それはまるで、新幹線のホームから転落する危険も分からずに、親の手から逃げ回る小さな子どもそのものです。
 そんな私を阿弥陀様は、追はえとり、迎えとって下さるのです。すべてを阿弥陀様にお任せする世界がそこにあるのです。
 危険が迫った時、猿の子どもは親猿のおなかにしっかりとしがみついて逃げますが、自分の力だけが頼りです。
 それに対して猫の親は、自分の子に危険が迫ると、わが子の首筋をくわえて逃げます。子猫はすべてを親にまかせます。ちょうど阿弥陀様の
救いの世界のようにです。

 例会住職法話より

2016年09月15日

梅鶯仏壮会報第135号・136号より

浄土真宗のみ教え「真実の教え」
*拝読本をお読み下さい。

 拝読本の三番目に示されるのは「真実の教え」ということです。
 私のいのちの行き先を問う「教え」が真実であるかどうかは重大なことです。

○真実の見極め
 まず、その教えが真実かどうかを救う側の問題から考えてみましょう。
 結論から言って、救う側が「救う者」と「救わない者」を区別する教えは、まず真実の教えとは言えないでしょう。
 コーランを読めない者を惨殺するといったテロリストの宗教観は論外であるとしても、一切のものを救済の対象としなければ教えに普遍性・真実性がありません。
 つぎに救われる側の問題です。
   分け登る麓の道は 多けれど
   同じ高嶺の 月を眺める

 という詩があります。 
 山を登る道はいくつかあるが、頂上で眺める月は同じである、といったことから「どんな宗教でも、教えや信仰の対象は違うけれども、道筋が違うだけで行き着く先はみな同じだ」という考え方です。
 これは一見もっとらしく聞こえますが、あくまで評論家的な発想です。
 宗教はこの私のいのちがたどり行き着く問題であり、人ごととしてどの宗教も同じだと規定することはまったく意味がありません。
 この私が登ることのできる道はどれであるか。
 そしてその道は間違いなく頂上まで行き着くことが出来るのか。
 そこに私にとっての「真実性」があるはずです。
 すべてのものを救いの対象とする「救う側の真実性」。
 この私が間違いなく救われるという「救われる側の真実性」
 この両方が相まって「救済」が成立するのです。

○親鸞聖人の真実
 では親鸞聖人はどのように見極められたのでしょうか。
 まず「救われる側の真実性」として、比叡山における20年間という歳月を掛けてたどり着かれたのが、「この私が救われる道はない」という結論だったのです。
 「地獄は一定すみかぞかし(地獄しか行きようのないこの私)」という見極めだったのです。
 もちろん仏教はあらゆるものを救済の対象とする真実の教えです。けれどもその中にあってもなお、この私(親鸞聖人)だけは救われようのない者であるとの結論です。
 ところがそのどん底の中で、というよりもそのどん底の中だからこそ、一筋の光明に出会われたのです。
 数多くの仏さまの中で、唯一「この私こそが目当てである」と仰って下さる仏さまがおられたのです。
 それが阿弥陀如来という仏さまでした。
 阿弥陀如来の本願による念仏往生の道に出会われたのです。
 この「絶対救われようのない私」と「絶対救うとの本願」、一見矛盾するように思われるものが同時に成立したのです。
 「自らを捨てさり、仏様に任せる」これは別々に存在するのではなく、一体として存在し、「二種深信」「機法一体の信心」と呼ばれ、南無阿弥陀仏のみ教えの大きな特徴であるとも言えます。

○お釈迦様の出世本懐
 この南無阿弥陀仏のみ教えは「仏説無量寿経」というお釈迦様のご説法の中で示されています。
 お釈迦様は「八万四千の法門」といわれるくらいの沢山の法を説かれました。
 けれどもこの「仏説無量寿経」を説かれたときのお釈迦様の様子は特別であったと記されています。

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 お釈迦様は、一人ひとりの相手に合わせたふさわしいお説教をなされたため、お説教の数は数えきれず、「八万四千の法門」「一切経」「大蔵経」と呼ばれ、「般若心経」や「法華経」もその中の一つです。
 ところが、南無阿弥陀仏のみ教えについてご説法される時の様子は特別であったということが、その教えが説かれている「仏説無量寿経」に記されています。

○阿難尊者の問い
 「仏説無量寿経」として著される南無阿弥陀仏のみ教えは、お釈迦様が王舎城の耆闍崛山(ぎしゃくっせん)という所でご説法なされました。
 ところがそのご説法をなされる時のお釈迦様はお顔だけでなく、全身が喜びに満ちあふれているのです。
 そこでお釈迦様の十大弟子の一人である阿難尊者が思わずお釈迦様にたずねられるのです。

 『私は長い間、お仕えしてきましたが、今日のように、尊く光り輝くおすがたは、いまだかつてありませんでした。これには何か理由があるのだろうと思います。推察致しますに、お釈迦様は、深いさとりに入られて、そのさとりの世界から、迷いの人々にさとりを聞かせて、お救いになろうとしているのではないでしょうか。どうぞ、そのお心をお説き下さい』

 その問いに対してお釈迦様はお応えになられます。

 『そなたは素晴らしいことをたずねた。私はこれから、私がこの世に出現した本当の目的を説き明かそうとしている。それは、あらゆる迷いの人々に真実の利益をあたえて、安らぎを与えることである。それゆえ、このように光り輝く姿を現したのである』

 そして、お釈迦様は阿弥陀如来の本願を説き始められたのです。
 それは「あなたがお浄土に往生できないなら、私も正覚の仏とは成らない」との誓いでありました。

○お釈迦様の出世本懐
 煩悩の世界に苦悩し、そこから抜け出せない私達が唯一救われる道としてお示しになられたのが阿弥陀さまのご本願による救いだったのです。
 親鸞聖人は、この南無阿弥陀仏の教えを説くことこそが、お釈迦様がこの世にお出ましになられた本来の目的であったことを明らかにされ、正信偈で、
 「如来所以興出世」
 「唯説弥陀本願海」

 (お釈迦様が世にお出ましになられたのは、唯々阿弥陀様の本願を説くためであった)
と悦んでおられます。
 「出世本懐」とはこの世にお生まれになった本当の目的という意味ですが、正にお釈迦様の「出世本懐」は仏説無量寿経を説くためであったのです。

○真実の教え
 法然上人も「仏教にはさまざまな経典があり、それぞれに尊重すべきではあるが、自分にとって本当によりどころとなるものは、阿弥陀如来の本願による往生成仏を説く「浄土三部経」である」と仰せになっておられます。
 このご本願のはたらきに出会うことがなければ、不安と苦悩の人生で、ただ愚痴をこぼして、ただ涙を流して終わっていくだけかもしれません。
 それでは、あまりにも虚しい人生となってしまうでしょう。
 お釈迦様が、「唯説弥陀本願海」であるならば、私たちは、「唯《聴》弥陀本願海」(唯々阿弥陀様の本
  願を聴かせて頂く)ことこそが肝要なのでしょう。
 
七月例会住職法話より

2015年11月01日

梅鶯仏壮会報第127・129号より

浄土真宗のみ教え「凡夫」
*拝読本をお読み下さい。

 拝読本の二番目に示されているのは「凡夫」です。
 「凡夫とは?」と聞かれたある女性が、「それは私の夫みたいな人」と答えられ、理由を聞くと「ごく平凡な夫ですから」と仰ったそうです。
 笑い話ですが、この答えはまんざらでもなく広辞苑のAには、「普通の人。凡人」とあります。
 けれどもちろん、本来の意味は@として「煩悩に束縛されて迷っている人」とあり、大切な仏教用語であります。

○煩悩に束縛されて
 私たちの煩悩は百八あるといわれ、その中心的な煩悩を三毒といいます。むさぼりの心の「貪欲」(とんよく)、思い通りに行かない怒りの「瞋恚」(しんに)、煩悩の根本である自己中心の「愚痴」です。
 これらは、「もっと欲しい」「良いものが欲しい」といった心から生じるのですが、ここで大事なことは、けっして「欲しいモノ」が私を苦しめているのではなく、「モノにとらわれた私の心」に自分で縛られ、自分で苦しんでいるということです。
 小学校四年生の児童のこんな詩があります。
  運動場
   朝、朝礼のとき 石を拾わされた
   みんな 広いなあ といって拾っていた
   休み時間に ボールあそびをした
   みんな 狭いなあ といって遊んでいた

 子供の素直な気持ちを詠んだ詩ですが、見事に人間の心のあり様を捉えています。
 人間の都合で、運動場が広くなったり狭くなったりするのです。
 雨が降るのを口惜しがったり喜んだりしています。
 同じ方でも「いい人」になったり、「いやな人」になったりもします。

○親鸞聖人の告白 
 親鸞聖人は、一念多念文意という書物の中で、
「凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほくいかりはらだちそねみねたむこころおほく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえず」と仰っておられます。
 私はこのご文を最初に読んだ若い頃、「なにもそこまで言わなくても」といった気持ちになりました。
 けれど、このご文は親鸞聖人が他人に言い聞かせるためのものではなく、ご自身が比叡山での二十年間に渡る想像を絶する厳しい修行の結果、不浄の心が取り払われるどころか、際限なく不浄の心が湧いてくる。そのぎりぎりの状態で見抜かれた自分の心を告白されたものなのです。
 自分のことをさておき、「そこまで言わなくても」と思った自分が、今では恥ずかしく思われます。

○自分ではなかなか気付かない
 自分ではなかなかそのことに気付かないところが、これまた凡夫が凡夫たる所以なのでしょう。
 蓮如上人は「蓮如上人御一代記聞書」という書物の中で、
 「他人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いところは気づかないものである。もし自分で悪いと気づくようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気がついたのだと思って心をあらためなければならない。人が注意をしてくれることに耳を傾けて、素直に受け入れなければならない。自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」と仰ってます。
 では一体、その凡夫がどうすればよいのかと、仏教 ・浄土真宗は教えるのでしょうか?
 
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 煩悩に束縛された存在が「凡夫」であり、その煩悩は「モノによって私が苦しめられている」のではなく、「モノにとらわれた私の心」に縛られて、自分で苦しんでいるということでした。
 では一体、その凡夫はどうすれば救われるのでしょうか?

○仏教―凡夫の自覚
 曹洞宗の開祖・道元禅師は「仏道をならうというは自己をならうなり」と仰られました。
 ジャーナリストの池上彰氏は、「仏教を知ることは己を知ること」と仰っています。
 また昔の言葉に「鉄砲は他人を撃ち、仏法は己を撃つ」という言葉があるそうです。
 医者が治療する時に一番やっかいな患者は、自分が病気であることを認めない患者であると聞いたことがあります。
 自分の病気を治すためには、まずどこが悪いのかを知ることが必要です。
 病気の原因や、良くなる方法は信頼できる医師にまかせるよりほかはありませんが、まず自分に病気の自覚がなければ、必要な治療も投薬も受けようとはしないでしょう。  
 お釈迦様は人間を煩悩に束縛された迷いの存在であると見抜き、その迷いから解き放たれる道を示して下さいましたが、まずは、私自身がどのような存在であるかに気付くことがスタートです。

○凡夫のままの救い
 お釈迦様の八万四千といわれるご説法の中で、日本でもっともよく読まれているお経に「般若心経」があります。
 「般若」とは「智恵」という意味で、煩悩に束縛された私達が智恵の眼を磨き、よこしまな考えを捨て、ありのままに物事を見て迷いから脱する教えが説かれているのが「般若心経」です。
 したがって、自力で悟りを得ようとする聖道門の宗派では、最も大切にされるお経です。
 けれども、そこに示される智恵の実践は、とても私にはかないません。
 親鸞聖人も20年間の比叡山での聖道門による厳しい修行の結果、たどりつかれたのが「いずれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし」(地獄しか行きようのない身)という自分だったのです。
 その絶望の淵の中で、法然上人と巡り会い、「たのめよ、まかせよ、そのままでよいぞよ」との阿弥陀様のご本願にお出会いになられたのです。 
 阿弥陀さんは「煩悩を捨てなさい」と諭すのではなく、私たち一人ひとりを、そのままわけへだてなく救い取って下さるのです。
 というよりも、凡夫である私を救うことが目当てなのです。
 親鸞聖人は、「それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と、悦んでおられます。

○信心を得た凡夫の生活
 私たちは、南無阿弥陀仏の信心を頂いたとしても、煩悩が無くなるわけではなく、命終えるまで際限なく沸き起こります。
 妙好人の才市さんは、自分の肖像画に「角」を書き足してもらったというエピソードがあります。
 一日を振り返れば、恥ずかしい凡夫の生活です。
けれども親鸞聖人は、入出二門偈の中で「真実信心を頂いた人は、凡夫に変わりはないが、如来の真実が至りとどいているという意味で、ただの凡夫ではなくなり、ほめたたえられる存在です」と仰っています。
 「凡夫」の自覚の中で、報恩と感謝の念が生じ、欲や怒りの起こり方が少なくなり、弱くなっていくということで、これが念仏者としての生き様なのはないでしょうか。完

例会住職法話より

2014年10月04日

梅鶯仏壮会報第119・120号より

浄土真宗のみ教え「人生そのものの問い」
*拝読本をお読み下さい。

 私たちは、それぞれに人生を歩ませて頂いておりますが、体が元気で、仕事も順調。家庭もそこそこ和やかで、特にこれといった問題はない。そういう時は幸せなはずです。
 けれどそういう時であっても、ついつい「もっと充実した生活を送りたい」、「もっと良い人生を歩みたい」と、つぎつぎに欲が出て、その欲に悩まされることもしばしばあります。

○人生の苦境
 いわんや、仕事につまづき、家庭にも不満が生じ始めたならば、人生そのものが次第に苦悩へと変わってきます。
 それでもまだ、多生の苦悩ならばなんとか堪え忍ぶこともできるのですが、ある日突然、親しい人との別れが来る。歳の順ならばまだしも、子や孫に先立たれるようなこともあります。
 あるいは、思いも掛けず病気になり、それも場合によっては命にも関わる。
 こうしたことがいつ何時やってくるか分からないのが私たちお互いなのです。
 こんな時に、こうした現実をすんなり受け入れることができ、強い心でその苦しみを乗りこえることができるならば、苦しみも少なくてすむかもしれませんが。けどもそう簡単に済まないのが私たちです。

○人生そのものの問い
 こんな時「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」。人生そのものの問いが起こ ってきます。
 この問いに確かな答えを持っていないと、苦悩の真っただ中で、悲しみのどん底にあえがなければなりません。
 私たち人間は大変弱い存在ですから、手っ取り早く解決してくれそうな道を選んでしまうことも多々あります。
 極端な場合にはいわゆるカルト宗教などにも「なんであの人が」と思うような人が信者となることもあります。
 むしろカルト宗教は真面目な人ほどだまされやすいなどとも言われます。
 耐えがたい虚しさを感じた人が、ふと複雑な問題や苦しみを全て「解決してあげます」といわれて引き寄せられてしまうのですね。
 何かにすがりたい。ワラをもつかみたい。という気持ちなのでしょう。
 けどもワラをつかんでいては溺れます。
 では大木だったら溺れないのかというと、それもダメです。もしも自分の方が眠ってしまったら、手が離れてやはり溺れてしまいます。
 けっして溺れないためには、しっかりした「船に乗る」ことです。

○苦の原因
 まず、私たちが苦しむのは何故なのでしょうか。
 仏教では人間世界をインドの古い言葉で「saha(サハー)と言います。
 これをそのままの発音で言葉にしたのが「娑婆」ですが、その意味を漢字に訳した言葉が、「堪忍土」です。「堪え忍ばなければ一日として生きていけない世界」という意味です。
 つまりこの世とは、「思い通りになることはほとんどなく、思い通りにならないことばかり」なのだということです。そこに苦しみが生じるのです。
 仏教では人生を「一切皆苦」といい、その苦の代表を「生老病死」の四苦として表します。
 ただし、「生老病死」そのものが苦であるとは説いていません。この世に起こっていることは、因果の道理から見ればすべて原因があって縁が伴い結果が生じていることばかりで、「生老病死」を含め、すべてが自然の摂理から言えば当然のことばかりです。
 けれども私の都合から言えば、そのことが時として理不尽でけっして受け入れることなどできず、もがき苦しむことになるのです。これが煩悩です。

「生老病死」を代表とする人生の苦の原因は、「生老病死」そのものにあるのではなく、この私自身の受け止め方にありました。
○仏教・浄土真宗の救い
 では仏教は、その苦をどのように解決しようとするのでしょうか。
 仏教は、お釈迦様が私たちの苦しみを根本的に解決することを示された教えです。
 つまり私たちの苦しみの原因は煩悩であり、煩悩を滅した状態が「さとり」といわれ、すべてのものをあるがままに受け入れることのできる「安楽の世界」なのです。
 そしてその煩悩を滅する実践が、八正道などの仏道修行で、修行することにより悟りを開こうと
するのが聖道門と呼ばれる自力行の世界です。
 親鸞聖人も比叡山での20年間は、ひたすらこの「自力行」によってさとりの世界を得ようとなされました。
 しかしながら、自ら煩悩を滅することなどはできない自分に到達され、失意の中で法然上人とお出会いになられ、自らの修行によって煩悩を滅することが求められているのではなく、煩悩に気付いた私には、すでに救いの法が届いて下さっていたことに気付かされる南無阿弥陀仏の世界へと入られたのです。
 阿弥陀如来によって救いが届けられ、阿弥陀如来のはたらきによって、この世の命を終える時には必ず浄土に生まれ悟りを得ることが出来る私であったということです。
 本願の救いに出会えば、人生の悲しみや苦しみは無くなりはしませんが、その中にあっても「必ずお浄土に生まれ、仏と成ることができる」という安心の世界が開け、苦しみもがくしかなかった人生の中で「確かな答え」が与えられるのです。

○お念仏の世界
 作家の五木寛之さんは、自著の中で、「宗教とは、闇夜(やみよ)の慣れない危険な道を歩く不安を解消してくれるわけでもなければ、苦しい距離を縮めてくれるわけでもなく、代わりに重い荷物を持ってくれるわけでもない。そうではなく、『苦しみと重さと不安のなかで、歩くエネルギーや勇気と生きるよろこび』を与える、あるいは『目に見えない人間の不安というものをしっかりと後ろから支えてくれる』ような光となるものだ」と言われています。
 一般的に宗教と言えば、人生の苦しみを除き、願いを叶えてくれるもの考えられがちなのですが、本当の宗教というのは、人生の苦しみや不安をそのままに受け止める中で、「生きる勇気」や「生きる支え」を与えてくれるものだということです。
 仏教は、人間の苦を短絡的に「無くす、取り除く」などというのではなく、その原因を見極め、根本から解決させようとするものなのです。
 いわゆるカルト宗教などとは次元が異なるのです。

○大悲無倦常照我
 私達の人生を根底から支えて下さっているのが阿弥陀如来であり、私達が忘れていようとも、阿弥陀如来の方は常に私達を憐れみ見捨てずに灯火をかかげて下さっているのです。
 私たちが目の前の現実をなかなか受け入れられず、悲しみにくれ、苦しみにもだえる気持ちを、常にあたたかくつつみこんで下さっているのです。
 苦難に沈んでいる時にこそ、阿弥陀さまは「われにまかせよ」と力強く、そしてやさしく呼びかけて下さ っているのです。その大いなる心に出会うことで、私たちは生かされていくのです。
 そこに「人生そのものの問い」に確かな答えが与えられ、確かな人生を歩むことができるのでしょう。

5・7月例会住職法話より

梅鶯仏壮会報第116号より

浄土真宗のみ教え(序)

 浄土真宗は、阿弥陀様からの呼び声を聞かせて頂く教えです。
 けれども、「阿弥陀様からの呼び声」が、まったくどのようなことなのかも分からずに、ただただ「信じよ」というのであれば、それは妄信と言わざるを得ません。
 やはり浄土真宗の門徒として、お念仏を悦ぶ身となるためには、正しく「浄土真宗のみ教え」を学ぶことが大切であり、梅鶯仏教壮年会の発足に当たって『語り合い尋ねる聞法の世界』とさせて頂いたのも、このことからです。
 ただし、み教えを学ぶことは、本願による救いの条件でも行でもありません。
 ここのところは、これまでにも繰り返しお話ししてきましたが、極めて大事なところなので、よく心得て頂きたいと思います。
 浄土真宗のみ教えを学ぶことによって、阿弥陀様の「われにまかせよ。必ず救うぞよ」との声が聞こえてくるのです。
 「私が聴く」世界から、「聞こえてくる」世界に転ぜられるのです。
 すなわち、「学ぶこと」そのものが「聞法の世界」だったことに気づかせて頂くのです。

○「み教えを学ぶ」とは
 それではどのように浄土真宗のみ教えを学べば良いのでしょうか。
 機会があればお説教を聞くことや、関係の本を読むこともその一つでしょう。
 しかし、やはり基本は、お釈迦様の教えや、親鸞聖人の教えを直接学ぶことが大切なのです。
 仏教では古来より、お経を読むことが大切な行為とされてきました。
 浄土真宗でも、浄土教の根本経典である浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)を読経することや、日常的には善導大師の『往生礼讃偈』が勤められてきました。

○蓮如上人のご功績
 ところがどうでしょう。経典を専門に学んでいる学者ならまだしも、ほとんどの人達が、ちんぷんかんぷんのままお勤めをしていたのではないでしょうか。
 「これではダメだ!」と行動に移されたのが蓮如上人です。
 作家の五木寛之さんは、「法然は易しく、親鸞は深く、蓮如は広く」と評されています。
 すなわち、法然上人はお念仏のみ教えを分かり易く説き、親鸞聖人はそれを深められた。
 そしてその深められたお念仏のみ教えを人々に広められたのが蓮如上人だと、それぞれの方々の功績を讃えられているのです。
 実に作家らしい評価の仕方だと感心致します。
 それでは、五木さんが、「広く」お念仏のみ教えを伝えた人と評される蓮如上人は、一体どのような取り組みをなされたのでしょうか。
 数多くの取り組みの中に、日常勤行に「正信偈」を制定されたことがあります。
 これは親鸞聖人が顕された正信念仏偈と和讃に念仏を組み合わせて、これまでの「往生礼讃偈」に代わるお経を作成されたのです。
 また御文章(お文)を作成して、多くの方々を広く教化されました。
 このどちらも当時の人々にとっては親しみやすく、浄土真宗のみ教えを易しく領解することができたことでしょう。

○「拝読浄土真宗のみ教え」
 ところが時代が移り、現代の私たちにとっては、「正信偈」も「御文章」も親しみは感じますが、その意味を理解するとなると、少し困難になってきています。
 そこで、「現代の言葉で表現され、み教えに出あえたよろこびを深めていくことのできる文章を」と、本願寺で作成されたのが「拝読 浄土真宗のみ教え」です。
 梅鶯仏壮の例会では、この本によって、お念仏の悦びを深めていきたいと思います。

一月例会住職法話より
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