2018年04月19日

住職のひとりごと

 ある方が「一日」を表して、『食っちゃ寝、食っちゃ寝して過ぎる』。
 また「一年」はといえば、『暑つうなった、寒むうなったと云って過ぎる』。
 そして「一生」は、『ああでもない、こうでもないと云ってる内に終わる』。と仰った。
 なにか言い得て妙である。
 43年間龍谷大学に奉職させて頂き、一昨年に定年退職してほぼ2年が過ぎようとしている。
 現在の生活はといえば、適度に所用もありそれなりに有り難く過ごさせて頂いているが、日々の楽しみは家内手作りの夕飯であり、就寝してからの読書である。
 まさに「食っちゃ寝、食っちゃ寝」して過ぎている。
 今年も早二ヶ月以上が過ぎ去ったが、振り返ってみると「寒さが厳しい。少し温かくなった。」と言いながら過ごしてきたようだ。
 これまでの人生を振り返れば、有頂天になるほど嬉しいことも、塗炭の苦しみに感じたこともあったようだが、総じて「ああでもない。こうでもない」と過ぎたような感がある。
 多分臨終の時の思いも大差ないであろう。
 これだけならば何のために人間に生まれてきたのか分からない。
 それどころか人間としての命を終えてまたどこをどう彷徨い続けるかも分からない。
 してみれば「人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生にむか って度せずんば、さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん」との言葉に逆らいようがなく、無上甚深微妙の法に遇うために生まれてきたとうなずくしかないのではないか・・・と少し力みが取れてきたようだ。


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2016年09月15日

「頼む」とは

 浄土真宗の南無阿弥陀仏のみ教えは、阿弥陀さまの「ひとりばたらき」による救いの世界であり、私の方からの働きかけはまったく必要といたしません。というよりはむしろ、私の計らいが阿弥陀さまの呼び声を聞きにくくしてしまうのです。
 にもかかわらず、『領解文』の中に「たすけそうらえと たのみもうしてそうろう・・・」とあるように、御文章などでは阿弥陀さまに「たすけとたのむ」という言い回しがよく使われます。
 このことから、やはり「助かるためには阿弥陀さまに頼まなければならないのか」という疑問が湧いてきます。
 もちろんこれは大きな誤解で、蓮如上人の時代(室町時代)と現在とでは「頼む」の意味合いが異なることから、誤解が生じています。
 現在の「頼む」は辞書に「@自分の希望するとおりにしてくれるよう相手に願う」とあるような使い方が主ですが、ところが蓮如上人の時代では「相手の方に私の願いを聞いてくれる意志が先にある場合」に使うことが主で、相手に全てを託すことができる時に使う言葉だったようです。現在の「頼もしい」という使い方が近いのではないでしょうか。
 このことを先代の寺川先生(寺川幽響先生)が、こんな喩え話でわかりやすくお説教して下さいました。
 ある時、おばあちゃんが葉書を出そうと郵便ポストに向かっていました。いつもおばあちゃんに優しい孫が通りかかり、「葉書、ぼくが自転車で出してきてやる」と云いました。そこでおばあちゃんは返事をします。「ほうか。ほな頼むな」と。これが蓮如上人がお使いになる「たのむ」なのです。
 こちらからお願いしたわけではなく、孫の方から掛けてくれた心です。しかも「本当にポストに入れてくれるだろうか?」などと少しも疑う必要はありません。すべてを任せきれる世界です。これが「たのむ」のこころなのです。
 浄土真宗の「たのむ一念のこころ」というのも、私の方からお願いするのではなく、「任せよ」という阿弥陀さまの呼びかけに、「お任せします」と返事することにほかならないのです。住職
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2016年04月24日

長野住職がラジオ出演

 KBS京都のラジオ番組『本多隆朗の京のあったか円かじり』に長野住職がゲスト出演しました。
 同番組は、毎週日曜日の朝6時25分から55分まで放送される番組で、メインパーソナリティは本派僧侶の本多隆朗氏(元毎日放送テレビプロデューサー)が担当し、アシスタントを伴真理子さんが担当しています。
 2002年10月に放送が開始された長寿番組で、毎回ゲストをスタジオに迎え、京都を中心とする様々な話題や情報を紹介する番組で、吉本興業が制作協力をしています。
 今般長野住職は「今朝のお寺さん」というコーナーにゲスト出演し、2週連続で放送されます。
 本年3月まで龍谷大学総務局長を勤めていたことがメインの話題ですが、法輪寺梅鶯仏壮のことにも触れています。

【放送日】
 平成28年4月17日(日)
 同      24日(日)
        朝6時25分より
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2015年08月12日

高齢化社会に向けて 住職

 いわゆる団塊の世代が65歳に到達し、日本はいま、加速度的に高齢化社会が進んでいます。
 平成32年には、高齢化率が29.1%に達し、ほぼ3人に1人が高齢者となります。
 寿命が伸びたことや、子供を産むことが少なくなったことなどの要因がかさなって、少子高齢化という社会構造ができあがりましたが、そのスピードが異常に速いため、社会制度等の対策がついていけなくなっており、この事態をどう乗り切るのかが大変深刻な問題となっています。
 同時に高齢者自身も、自分の人生をどのように送るのかを真剣に考えることが求められています。
 誰もが避けられない「老い」とやがてむかえる「死」を、どのように受けとめて生きるかということが、きびしく問われています。
 しかしながら、老いとか死とい った宗教的な問題に目を向けてこなかった戦後教育が、今、大きなひずみとなってきているように思えます。
 そんな中で私達が、梅鶯仏壮という聞法の場を持たせて頂いていることは、有り難いことではないでしょうか。一人でも多くの例会への参加をお願いします。 住職
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2012年01月22日

被災地「宮城県」を訪ねて 住職

 去る十二月三日、東日本大震災の被災地宮城県を訪れた。
 訪問の目的は、震災発生以来延べ数百名の龍谷大学生が現地でボランテイア活動を行っており、現地スタッフへの挨拶と学生達の激励を赤松学長と共に行うためであった。
 三陸沖を震源とし、岩手県沖から茨城県沖にわたる広範囲を震源域とした東日本大震災は、地震の規模を示すマグニチュードは9.0で、地震のエネルギーは阪神・淡路大震災の数百倍から千倍といわれている。
 そしてなによりも空前絶後の大津波は、想像を絶する甚大な被害をもたらした。
 私が訪れたのは、震災から約九ヶ月を過ぎようとしていたが、その生々しい傷跡は、まだまだ随所に残されていた。
 まず空路で仙台空港に到着した。
 仙台空港が津波に襲われた時の映像は強く目に焼き付いているが、仙台空港から海岸までの壮大な平野は、いまだに「荒野」と呼ぶに相応しいすさんだ状態であった。
 もともと住宅と田畑が広がる平野であったが、住宅は壊滅し、田畑も海水に浸されていまだ草も生えていない状態である。
 仙台空港から西本願寺の対策本部が設置されている仙台別院に向かった。途中、至る所に震災の爪痕が残っていたが、最も衝撃的な光景は、海岸からはるかに離れた田んぼや道沿いに不自然に横たわる、数隻の漁船の姿であった。
 人の力で運ぶことは容易ではないであろうが、いとも簡単に流し込んだ津波の威力をまざまざと実感した。
 その後、学生達が活動する七ヶ浜町へと向かった。七ヶ浜町とは七つの浜集落からなる町で、その名の通り大変のどかな海岸線の町であったが、現在は、見るも無惨な状態に破壊されてしまっていた。
 元気に活動する学生達を励まして、滞在時関がわずか数時間という強行日程で帰路についた。
 ある人の「この震災の姿を一度もみることなく日本の将来を語る人は信用できない」との言葉に素直にうなずくことができた。同時に「震災支援はコツコツと永きに渡ることが大切だ」との現地スタッフの言葉が印象的であり、震災に関するマスコミ露出が極端に少なくなっている現実が大変心配である。
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2010年11月20日

『王貞治氏』(住職余談)

 世界のホームラン王、国民栄誉賞第1号受賞者、そして本年度文化功労者顕彰等々、数多くの冠を有される福岡ソフトバンク球団会長の王貞治氏と、この夏、食事を共にさせていただく機会に恵まれた。
 本年7月16日、ある事がきっかけで、龍谷大学若原学長とともに福岡市内の日航ホテルで王氏と会食することとなった。
 私達世代にとっては憧れの存在であり、雲の上の存在でもある王氏との会談、はたしてどのような話しをすればよいのかと、緊張と不安の中で会場である中華料理店に向かった。
 ところがなんと、お会いするやいなや王氏の方から親しげに話しかけて頂き、野球以外の時に見せるあの人なつっこい笑顔で私達の緊張を大いに解きほぐして下さった。
 もちろんその風格は「世界の王」に相応しく紳士的だが、同時に人間味あふれる人柄にすっかり魅入られてしまった。
 心配していた会話も途切れることなく、王氏からもいろんな話をお聞きすることができ、あっという間の2時間半だった。

○生かされてきた人生
 超一流人の多くの方に共通するのは、「自分は生かされ支えられてきた存在」との謙虚な姿勢である。
 王氏も「私にはもともとボールを遠くに飛ばす能力が身に備わっていたと思います。けれどその能力を引き出してくれる多くの人がいたから結果が出せたんだと思います。ですからまずこの体を与えてくれた両親に感謝していますし、私をこれまで支えてくれた多くの人達に感謝しています。特に私が打ったホームランの半分は女房と一緒に打ったのだと思っています」と話されてました。

○双子のお姉さん
 王氏が双子だったのはご存じでしょうか。
 実は王氏はお姉さんとの双子で、王氏の方は仮死状態で生まれてきたそうで、医者にパンとたたかれて、初めて弱々しく泣いたそうです。
 丸々と太ったお姉さんとは対照的に、王氏は小さく虚弱で、両親は「これは駄目だ」と思ったそうです。
 事実、王氏は2歳になるまで、歩けなかったそうです。
 ところがなんと、元気に生まれてきたお姉さんの方が、1歳3ヶ月でジフテリアにかかって急死してしまいます。
 そこでよくお母さんは「お姉ちゃんの広子は貞治の体の悪いところを持って行ってくれた。あんたはお姉ちゃんに感謝しなくてはいけない」と涙ぐんで言われたそうです。
 ですから王氏も幼い頃から「僕には二人分の力がある。姉と一緒の二人力だ」と思ってきたそうです。

○北陸出身のお母さん
 そのお母さんの登美さんは、中国浙江省出身の父親仕福さんとご夫婦で、戦前戦後の複雑な時代においても、だれからも慕われたご夫婦だったそうです。
 私は母親登美さんが北陸地方出身の方であると知っていましたので、王氏に、「北陸地方は真宗門徒が多いので、もしかするとご門徒かも知れませんね」と申し上げたら、「そうかも知れませんね」と笑顔で仰ってました。
 そのお母さんも本年8月に、108歳の長寿で逝去なされました。
 王氏の人生やいのちへの考え方が、仏教者・念仏者を思わせるように温かいのは、きっとお母さんがご門徒の家庭で育たれたのに違いないと思っています。
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仏教用語の解説【番外編】

《供養》くよう

 本年の除夜会・竹灯籠の夕べでは、初めての試みとして「ろうそく供養」を行います。
 そこで「供養」という言葉ですが、もちろん仏教用語で、一般的によく知られた言葉なのですが、本当の正しい意味は必ずしも理解されていません
 そこでこの機会に「供養」の正しい意味を学んでみたいと思います。
 まず、「供養」を国語辞典で調べますと、「仏前・霊前などに物を供え、冥福を祈ること」とあります。
 その冥福も辞書では「来世での幸福」とありますから、すなわち「供養」とは「亡くなった方の来世でのしあわせを物を備えて祈ること」となります。
 どうでしょうか。もうこのように述べた段階で、浄土真宗の門徒である私たちには、なにか違和感が感じられるのではないでしょうか。
 南無阿弥陀仏のみ教えは、自分の力ではどうしても仏と成ることができない煩悩具足の凡夫である私たちが、阿弥陀様の本願ひとつによって、間違いなくお浄土に生まれ真実のさとりを得させて頂くというものでありました。
 したがって、亡くなった方の幸せのために祈る力など全くないのが私たちでありますし、それ以上にお念仏のみ教えを聞いて亡くなられた方達は、間違いなく仏様と成られているのですから、幸せを祈る必要など全くないのです。
 その意味で、一般にいわれる供養は必要ないのですが、実は本来の「供養」の意味は全く違って、「宗教的偉人などに敬意を持って資具を捧げる」ことなのです。
 ですから仏教本来の意味も、「仏・法・僧の三宝やご先祖様を敬って、物を捧げること」だったのですが、いつのまにか死者の冥福を祈るためのものと曲解されたようです。
 もちろん除夜会に行う梅鶯仏壮の「ろうそく供養」は、本来の意味での供養です。
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2009年11月23日

仏教用語の解説I

《自 然》
 一般用語:しぜん
 仏教用語:じねん


「自然」を辞書で調べますと、@人間の作為によらないで存在するもの A人や物の本来の性質や状態 Bひとりでにそうなるさま Cありのままであるさま などとありますが、やはり私たちにとって自然(しぜん)という言葉からは、木や緑が豊かな野山、雨が森の木々をぬらし、ゆるやかに流れゆく小川のせせらぎといった情景を思い浮かべます。
 そのように願う自然も、地球環境が悪化の一途をたどり、温暖化が加速度的に進む中で自然が破壊されて、砂漠化や洪水の被害が頻発し、今、人類が抱える最大の危機的課題となっています。
 この「自然」は仏教用語では、「じねん」と呼びます。
 特に親鸞聖人は「自(おの)ずから然(しか)らしむ」と読み、「阿弥陀仏の本願力を信じ、救いをたのむ念仏者は、何のはからいもなく本願力によって自ずから浄土に往生せしめられること」と味わっておられます。
 まさに絶対他力の阿弥陀様のご本願による救いのはたらきや、さとりの境地を示す言葉として味わっておられるのです。
 つまり、人間のはからいを超えた如来のはたらき、私たちを大きく包み込むはたらきを「自然(じねん)」として呼んでおられるのです。
 してみれば、私たちが一般的に使う「自然(しぜん)」も、私たちを大きく包み込み、私たちを生からしめている大きなはたらきとして、野山や川を受け止めることが大切ではないかと思えます。
 「地球に優しく」とか「自然を大切に」などといいますが、実は優しく大切にされているのは自然の恵みにより生かされている私たちの方で、自然を征服しているがごとく思い上がってきた現代人の意識を変え、おかげさまのこころを取り戻すことこそが環境問題の原点ではないでしょうか。
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2009年11月17日

仏教用語の解説J

《選 択》
 一般用語:せんたく
 仏教用語:せんじゃく


 「選択」は、一般的には「せんたく」と読み、「いくつかあるものの中から適当なものを選びとること」という意味です。
 仏教ではこれを「せんじゃく」と読み、言葉の意味としては同じですが、特に南無阿弥陀仏のみ教えこそが最もすぐれ、最も修めやすいみ教えだとして、お釈迦様がお示しになられた数多くの教えの中から念仏一行を「選取」(選び取る)し、そのほかの一切の余行を「選捨」(選び捨てる)することをいいます。
 その言葉が端的に使われているのが、法然(源空)上人の「選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」です。
 この著書は念仏往生の意義を示して、称名念仏こそが正しく選び取られた行業であることを述べ、雑行雑修(仏と成ることのできない行)の自力行を捨てて、仏様の願いにかなった往生の正しい道である称名念仏をすすめられています。
 ところが、当時の仏教は権力に結びついた特定の人達のためだけにある自力行が主でありました。
 そのため、この書が表に出れば大変な混乱や誤解が生じると考えられ、法然上人はお弟子さん達にさえも容易にこの書を読まさせなかったのです。
 けれども親鸞聖人には、法然上人自らの影像を図画することを認めるとともに、この「選択本願念仏集」を書写することを許されました。
 このことは、法然上人と親鸞聖人が如何に信頼関係で結ばれておられたかということがうかがい知れます。
 この場面は、新聞に連載された五木寛之さんの小説「親鸞」の中でも、大変ドラマチックに描かれていました。
 法然上人も親鸞聖人も、私たち凡夫がわけへだてなく仏と成ることのできる真実の道を、権力やあらゆるしがらみを恐れることなく命がけで選択なされました。
 私たちの人生でもしばしば選択を迫られることがありますが、正しい事には命がけで・・・とは、なかなかいかないものですね。
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2008年09月18日

仏教用語の解説H

《微 妙》
 一般用語:びみょう
 仏教用語:みみょう 


 「微妙」は、一般用語では「びみょう」と読み、「それは非常に微妙ですね」などと、簡単には言い表せないさまを示す時などに使います。
 ところが、仏教用語では「みみ ょう」と読み、「計り知れないほど深くて見事で、不思議なさま」という意味に使い、仏教のみ教えや、それを悟る智慧が、奥深く、すぐれたさまを形容する言葉として、お経の中では、しばしば出てきます。
 例えば、月参りでお勤めさせて頂くことから皆さんにもなじみの深い「阿弥陀経」の中にも、

  池中蓮華  大如車輪
  青色青光  黄色黄光
  赤色赤光  白色白光
  微妙香潔

とあります。
 この箇所は、阿弥陀様の極楽浄土のうるわしいすがたを示すところで、「極楽浄土にある池の中には、車輪のように大きな蓮の花があって、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである」という意味で、おもわず金子みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」の詩を思い出します。
 それぞれの花がそれぞれに、計り知れないほど、見事に美しく、香り清らかに咲いているさまを示す言葉として、「微妙」という言葉が使われています。
 実は、この「微妙」という言葉が、「みみょう」と読み、このような意味に使われるのは、けっして仏教用語としてだけでなく、今昔物語集などの古文でも同じように使われています。
 したがって、「微妙」という言葉のもともとの使われ方が、いつのまにか現代のような使われ方に変わってきたようです。
 「仏さまの教えは微妙(みみょう)」なのですが、けっして「仏さまの教えは微妙(びみょう)」などと読まないでくださいね。
 全然意味が違ってきますよね。
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仏教用語の解説G

《生 死》
 一般用語:せいし
 仏教用語:しょうじ 


「生死」は、一般用語としては「せいし」と読み、仏教用語では「しょうじ」と読みます。
 これは読み方が違うだけではなく、その意味合いが異なることにも注目して下さい。
 一般用語として使う「せいし」は、「生」と「死」を別ものとして考えます。
 つまり、「生まれること」はめでたいことであり、「死ぬこと」は不幸なこととして、「生」と「死」を対照的なものとしてとらえる言葉です。
 けれども仏教では、生まれたものは必ず死に至るとして、「生」と「死」は紙の表裏のように一体のものとしてとらえます。
 つまり「生死(しょうじ)」とは、生まれ変わり死に変わりしてとどまることがない私達の迷いの姿をあらわす一体の言葉です。
 「生まれること」がめでたく、「死ぬこと」が不幸ではなく、生死は一体のもとしての迷いの姿なのです。
 この「生死」は輪廻とも訳されますが、これまで無限に迷いの「生死」を繰り返してきているのが私達なのです。
 経典には、この生死の迷いを夜の闇にたとえて「生死の長夜」とか、苦しみの限りのないことを海にたとえて「生死の大海」などと示されます。
 仏教は、この生死の無限の繰り返しの輪から離脱して、絶対の安らぎの境地に到達することを目的とします。
 この安らぎの世界がさとりの世界であり、涅槃と呼ばれる世界なのです。
 
○安穏の世界へ
 「眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い」と示されます。
 今私達は幸いにも、阿弥陀様のご本願により、生死の長い道のりから離脱するすべを頂くことができました。
 この上での私達の人生は、けっして眠れぬ長い夜ではなく、行き着く安穏の世界が待っている、喜びの旅路なのです。
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2008年04月12日

仏教用語の解説F

 前回まで、仏教ではとても大切な言葉なのに、全くまちがった意味で使われているいくつかの言葉について、本来の意味を解説しながら紹介してきました。
 今回からは、仏教での読み方とはちがう読み方で一般的に使われている言葉について、本来の意味を紹介しながら、いくつか紹介していきたいと思います。

《上品・下品》
 一般:じょうひん・げひん
 仏教:じょうぼん・げぼん
 
「上品・下品」は一般的には、「じょうひん・げひん」と読み、上品は、「品格がいやしくなく、気品があるさま」を意味し、反対に下品は、「いやしく、品のよくないさま」を意味します。
 これを仏教では「じょうぼん・げぼん」と読み、阿弥陀様のお浄土への往生を願う者が、修行の程度によって、大きく上品・中品・下品の3つに分類されることを言います。
 生前なんらかの善業を積んだ凡夫は、上品・中品に往生するのに対して、善を修せず悪をなした者は下品に生ずるといいます。このことが転じて、上品は「上等、上級」を意味し、下品は「下等、下級」を意味する一般用語となり、さらに「じょうひん・げひん」と読んで、「品がよい、品が悪い」と使われるようになったようです。

○阿弥陀様の願い
 ところでこの上品・中品・下品は、浄土三部経の一つ「観無量寿経」に説かれているのですが、これをさらに三分類して九種類に定められています。
 その中の最下位が「下品下生」と呼ばれる全く救われようのない位なのですが、人ごとではありません。その「下品下生」こそがこの私なのです。
 善業を積むどころか悪業煩悩に惑い、往生のすべを全く持たないこの私であると示されるのです。
 けれど同時に、だからこそ全ての者を救わずにはおかれないとの阿弥陀様のご本願があるのだと説かれているのです。
 つまり、阿弥陀様の救いの目当ては、まさに「下品下生」のこの私にあり、阿弥陀様の願いの中に居る私であることを改めて悦びたいものですが、娑婆世界では、少しでも「上品(じょうひん)」でありたいものです。 
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2008年01月03日

「ちょっといい話」

 坊守には負担を掛けますが、報恩講の「お斎(とき)」は、実に楽しいひと時です。
 それは旨い酒と肴もさることながら、気の置けない法友との語らいの場だからです。
 そしてその語らいは、時として「おみのり」談義にもなります。
 今年の報恩講のお斎の席で、宴もたけなわとなった頃、北村政民さんが側に来て、こんな話をして下さいました。
「ご縁さん、よく鉄道員が『信号よ〜し!』などと指で差し示し、声を出しながら安全を確認しますね。あれを『指差呼称』と云うんだそうですが、あれはけっして独り言ではなく、もうひとりの自分が、もうひとりの自分に声を掛けているんだと思うんですよ・・」
『な〜るほど』と私。
 そこですかさず政民さん、「『南無阿弥陀仏』と称えるお念仏も、なにかそのような気がするんですが・・・」
『うん。うん。うん』と心でうなずきながら、私はある念仏者のこんな詩を思い出しました。

  南無阿弥陀仏
  声はひとつに 味ふたつ
  親の呼ぶ声 子のしたふ声

 幼子が不安なときや悲しいときに、たとえその場にお母さんが居なくても、「お母さ〜ん」と思わず声に出します。
 あれはいつでも自分のことを思い続けてくれているお母さんの存在を確認する気持ちが、思わず声に出てくるのでしょう。
 ですから、「お母さ〜ん」と呼ぶ声は子供の声であっても、その声に「母親」を感じる時、すでに「その声」は母親そのものとなっているのではないでしょうか。
 阿弥陀様のご本願によって必ず助けられ、お浄土に生まれさせて頂くと信じ、ふと、私の口からこぼれでる『南無阿弥陀仏』のお念仏は、私の応える声であるとともに、同時に阿弥陀様の呼び声なのでしょう。
 なんとも味わいのあるお話しを聞かせて頂きました。
 政民さんありがとう。そして梅鶯仏壮のみなさん、本年も楽しいひと時をありがとう。
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2007年09月25日

仏教用語の解説E

《出世(しゅっせ)》
 会社や組織で昇進を重ね、高いポストに就いた時などに「あの人は出世した」といいます。
 また、小説家などがはじめて世間に知られるようになった作品のことを「あの人の出世作」などと言います。
 いずれも、社会において高い地位を得たことや、高名になったことを意味し、どちらかというと非常に俗世間ぽい感じのする言葉です。
 けれども、この「出世」も正真正銘の仏教用語で、俗世間的どころか非常に崇高な言葉なのです。
 皆さんが日常によくお勤めをする「正信偈」にも、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と出てきます。これを意訳しますと、「お釈迦さまがこの世に出られたのは、ただ阿弥陀仏の本願の教えを説くためでありました」という意味です。
 これは、「出世本懐」(しゅっせほんがい)ともいい、お釈迦様がこの世に生まれ出でられた真の目的を示しています。
 すなわち、仏教で言う本来の「出世」の意味は、「仏さまが私達を救うために、仮に人間の姿となって、この世に生まれ出られること」をいうのです。
 また、仏教には出世間」という言葉もあります。
 これは、私達人間が世俗のことを捨てて、仏教の修業者になることで、「出家」と同じ意味です。
 それでは、なぜこのような崇高な意味を持つ言葉が、俗世間ぽい言葉として使われるようになったのでしょうか。
 それは、昔の日本における公卿の子息は、学問を身につけ、人格を形成するために出家(出世)することが多く、彼らは普通の人達よりも早く昇進したために、「出世」という言葉が、「昇進する」「世間に認められる」という意味に使われるようになったのだと言われております。
 その意味からも、「出世」するとは、高い地位を目指し、有名になることを目的とするよりも、まずは自分自身の足元も見て、必要な知識を身につけ、人格を陶冶することが大切なのではないでしょうか。
posted by ryoho at 13:04| 会報記事ひろいよみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仏教用語の解説D

《諦め(あきらめ)》
 「あきらめた」「あきらめきれない」など、日常会話ではよく使う言葉です。
 たとえば、大切にしていたお茶碗をふとしたはずみで割ってしまった時など、「あきらめきれない」と嘆きます。
 これは失った物事への思いが断ち切れないことです。
 また、「医者になることをあきらめた」などは、将来の夢を断念したという意味合いです。
 このように、「あきらめ」という言葉は、どちらかというと人間の消極的な心をあらわす言葉として使われていますが、実は本来の「諦め(あきらめ)」とは、仏教用語で『明らかに見極める』という意味で、とても積極的で大事な言葉なのです。
 お釈迦様がさとりを開かれ、初めて仏法を説かれたのが「四諦」という教えです。
 これは、迷いの中にいる私達が、どうすれば救われるかを、四点において明らかにされたものです。
@一点目は、私達の人生は苦であること(苦諦)。
A二点目は、その苦の原因は自らの煩悩によること(集諦)。
B三点目は、その煩悩を滅すれば苦のない境地に到達できること(滅諦)。
C四点目は、苦のない境地に到達するには正しい行を実践しなければならないこと(道諦)。
 つまり「諦め」とは、問題の根本原因を明らかにし、それを解決するための方策を明らかにするという、私達にとってはとても大切なことなのです。
 お茶碗が割れたことを嘆くときも、「かたちあるものは必ず滅する」というものの道理をわきまえ、今ある命の尊さを改めて感じることが「あきらめ」ることであり、将来の夢を断念するときも、自分の才能と、努力の限界を見極め、もっと自分に合った夢が見極められたとき、はじめて「あきらめ」ることができるのだと思います。
 この仏教の大切なキーワードを、自分の人生の一つひとつの出来事において当てはめてみることは、大切なことだと思います。
 しっかりと「あきらめる」ことのできる人生を送りたいものです。
posted by ryoho at 13:01| 会報記事ひろいよみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仏教用語の解説C

《我 慢》
 これまで、「他力本願」「往生」「縁起」と、本当は大切な仏教用語なのに、なぜか間違って良くない意味に使われている例を挙げましたが、今回の『我慢』は全くその逆で、仏教では良くない意味の言葉なのに、一般的には「辛抱する」「堪え忍ぶ」といった意味で、人間として大事な精神をあらわす良い言葉として使われるように変化した、おもしろい例です。
 もともとの仏教用語としての『我慢』の「我」は、「我執」や「我欲」といった使われ方をするように、「わたしが」「自分が」などと自分に執着する心で、これが悩みのもとになる、いわゆる煩悩なのです。
 また「慢」は、「慢心」「傲慢」などのように、自分の考えを中心とするうぬぼれの心であり、このおごりたかぶりの心も結局は争いの種となり、同じく煩悩なのです。
 正信偈にも、「邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難」(おごりたかぶりよこしまのはかろう身にて信ぜんに 難きなかにもなおかたし)
と、驕慢な人間は、信心を受けることが、はなはだ難しいと示されています。
 このように仏教ではけっして良い言葉ではないのですが、ところが「我(が)が強い」ということは、負けん気が強く、生きる力が強いということで、次第に「頑張りがきく」「辛抱強い」という意味に使われるようになったようです。
 最近の痛ましい事件や事故には、我慢がしきれなくなって人を傷つけたり殺めたり、また凶悪な犯罪を犯したりする例が多く見られます。
 これは、頑張りや辛抱が限界に達したというよりも、やはり仏教用語の本来の意味が示すとおり、「我」を張りすぎたり、「傲慢」なおごりの心が強すぎたりした結果なのではないでしょうか。
 人生において、堪え忍ぶことは大切なことですが、「私こそが」といった「我慢」や、せっかくの人の思いを踏みにじるほどの「やせ我慢」はほどほどにしたいものです。
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2007年06月06日

仏教用語の解説B

《縁 起》
「縁起が良い、悪い」
「縁起をかつぐ」
「縁起でもない」
「縁起なおし」
などと、「縁起」という言葉が一般的に使われることがあります。
 これらの「縁起」という言葉の使われ方は、どれもが、未来の吉凶(善し悪し)を占う意味や、その吉凶の前触れとしての意味で使われています。
 しかも問題なのは、すべてが自分に都合の良いことを願い、自分に都合の悪いことを避けたり、逃れようとの思いで使っていることです。
 「縁起」という言葉が仏教の言葉でありながら、こんな使われ方は、なんだかおかしいと思いませんか。
 そうです。本来「縁起」とは「因縁生起」という言葉を略したもので、「すべてのものは、さまざまな原因(因)や、条件(縁)によって、成り立っている」という、ものの在りかたの根本をあらわす仏教の大切な言葉なのです。
 とかく自分中心に、自分の都合でものごとを見がちな私たちに、ものごとはすべて相互に関係し合い、影響し合って存在することを教えているのです。
 確かに、私たちの身の回りのものは、食べ物、着る物、なにからなにまでが、様々な因縁によってもたらされています。
 たった一つの米粒でも、土に籾がまかれ、水と太陽の恵みがあり、お百姓さんの大変なお世話があって、初めて私に届いて下さっているのです。
 人間は一人ではけっして生きられず、たくさんの因や縁によって生かされているのです。
 他の多くのもののはたらきや恵みを受けて、生かされているのです。
 「縁起」に気づくとは、将来の自分の善し悪しを占うことではなく、今ある自分を、生かされて生きている「おかげさま」なのだと気づかさせて頂くことであり、自分もまた、他を生かさせている存在であり、自分の勝手だけでは生きられないことに気づかせて頂くことであります。
posted by ryoho at 15:55| 会報記事ひろいよみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仏教用語の解説A

《往 生》
 『お〜じょ〜しまっせ!』 
 漫才師「こだま・ひびき」のギャグです。
 お笑い好きの私にとって、「こだま・ひびき」は好きな漫才師であり、大いに楽しませてもらっています。
 けれどこの得意の『おうじょうしまっせ!』 のギャグが出たとき、観客はドッとわきますが、私はいつも心のすみになんともいえない寂しさを感じます。
 「往生」という言葉は申すまでもなく仏教用語で、本来の意味は「阿弥陀さまの世界であるお浄土に『往(ゆ)き生まれる』」ということです。
 つまり浄土真宗門徒の私達にとっては、願い求める究極の世界であり、もっとも大切な言葉の一つなのです。
 ところが「こだま・ひびき」の『おうじょうしまっせ!』は本来の意味どころか、「困り果てた」という全く反対の意味で使っているのです。
 確かに辞書を引きますと、最初に「この世を去り、極楽浄土に往(い)って生まれること」とありますが、その後に「死ぬこと」、さらには「どうにもしようがなくなること」という意味も記載されており、けっして「こだま・ひびき」が間違っているのではなく、現代社会ではそのように使われているのが事実であります。
 この誤った使われ方の原因は、「この世を去り、極楽浄土に往き生まれる」という本来の意味が、「この世を去る」、つまり死ぬことだけの意味になってしまい、それがマイナスイメージとなって、やがて「どうにもならない」「困り果てた」という全く逆さまの意味になってしまったのだと思います。
 けれどもあくまで私達浄土真宗門徒にとっては「死ぬ=終わり」ではなく、「阿弥陀さまの国・お浄土に生まれて仏となり、すぐさま、すべての人を救う」というのが教えであり、それが「往生」であります。
 往生は、私たちを安らかな気持ちにさせてくれる言葉であることを、改めて認識しましょう。
posted by ryoho at 15:50| 会報記事ひろいよみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仏教用語の解説@

仏教の言葉
 「生死」「礼拝」「下品」「選択」「利益」「貪欲」「歓喜」「流通」「安心」「荘厳」「非行」「名声」
 これらの言葉は、私たちが日常よく使う言葉ですが、どれも本来仏教の言葉です。
 そして、その読み方も仏教では別の読み方をするのですが、さて皆さんはいくつ読むことができますか?(解答後掲)
 けれども、読み方が違ってきているのはまだ良いのですが、「他力」「往生」「縁起」など、とても仏教では大切な言葉が、全くまちがった意味で使われていることも多くあります。
 そこで、まちがって使われているいくつかの言葉について、本来の意味をシリーズで解説していきたいと思います。

《他力本願》
 大相撲での優勝争いの終盤、優勝争いの相手力士が負ければ優勝が決まるといった状況の時に、解説者が「他力本願ではダメ。自力で優勝を決めなくては!」などと言うことがあります。
 この解説者は、他力本願を「もっぱら他人の力をあてにする」といった意味として、そのような考え方は良くないこととして誡(いまし)めているのです。
 私達浄土真宗の門徒にとって、他力本願という言葉がこのように使われることは、とても悲しいことです。
 本来の他力本願という言葉は、「阿弥陀様が一切の人を救おうとして立てたご本願によって、私達が仏となること」という意味で、私達念仏者にとっては、阿弥陀様のこころをあらわす大切な言葉なのです。
 それをいつの頃からか、世間の事柄に関して、「他人を頼って物事をしようとする」と、比喩的に使われるようになったのです。
 阿弥陀さまの願いである「他力本願」と、世間で比喩的に使う「他力本願」とでは根本的に意味合いが異なり、比較などできるものではないのでしょうが、敢えてその違いを述べます。
@「私の側」の違い
 親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身」と仰っています。
 私達はどうしても自分の力では仏になることができないのです。その私達を見抜いて「我が救う」と誓われているのが阿弥陀様の他力本願です。
 相撲の世界では力士が努力を重ねて勝ち抜くことに意義があり、自身の努力抜きに他の力士を当てにするのは確かに筋違いです。その筋違いの世界と「努力しようにも努力できない私」を出発点としている阿弥陀さまの他力本願の世界とでは根本的に違うのです。
A「相手側」の違い
 阿弥陀さまは私達のことを「わがこと」として悲しみ、私達が幸せにならなければ、阿弥陀さまも幸せにはならないと誓われます。
 世間一般で他力本願と使うときの相手側はどうでしょうか。こちら側の幸せを願うどころか、しょせん「ひとごと」なのです。
 にもかかわらずそれを当てにするようであれば確かに筋違いで、当てにならない筋違いの世界と、私達を救いたいと願われる智恵と慈悲の世界では、やはり意味合いが根本的に違うのです。
梅鶯仏壮会員は正しく仏教用語を使いましょう。


(仏教の言葉、読み方の解答)
「生死」(しょうじ) 「礼拝」(らいはい)
「下品」(げぼん) 「選択」(せんじゃく)
「利益」(りやく) 「貪欲」(とんよく) 
「歓喜」(かんぎ) 「流通」(るずう) 
「安心」(あんじん) 「荘厳」(しょうごん)
「非行」(ひぎょう) 「名声」(みょうしょう)
posted by ryoho at 15:48| 会報記事ひろいよみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月12日

納骨の意味

 今秋、法輪寺で大谷本廟納骨参拝ツアーが実施されました。
 そこで「お骨にはどんな意味があるのですか?」「なぜ納骨するのですか?」という素朴な疑問にお答えしたいと思います。


 私達は、だれしも自分の体は愛おしく大切なものです。
 それは、縁あって人間として生まれ、この体とともに「わたくし」という存在があるからです。
 けれども人間としての命が終わり、幸いにもお浄土に往生し、仏さまと成らさせて頂いた時には、もうこの愛おしい体にさえも執着する必要のない世界に生まれさせて頂くのです。
 ですからその段階では、屍(しかばね)もお骨もただの物質にすぎず、「お骨に魂が宿っている」とか「供養しなければたたりがある」などと考えるの全くの迷信に過ぎません。
 親鸞聖人は「改邪鈔」という書物の中で、

 『親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし・・ ・・。』
 (私が死んだなら、賀茂川に放って、魚に食べさせてください)

と仰っています。
 これは親鸞聖人の時代にも、死者供養のみを目的とした仏事が中心であったことから、「本当に大切なのは、この私がお念仏によって仏とならさせて頂くことです」とお諭しになられたことのようです。
 では、何故私達は「納骨」をするのでしょうか?
 それは、お骨を通じて故人を偲び、長く祖先から引き継いでくださったお念仏を、子孫ともどもに悦びあう法縁の場としてお骨をお納めするのです。
 「先(さき)に生まれんものは後(のち)を導き、後に生まれんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ」との仰せもあります。
 私達は、今、お念仏のみ教えに出会えたことを悦ぶとき、祖先を偲び感謝をしなければなりませんし、同時に子孫に対して相続していかねばなりません。
 納骨はその縁を結ぶためのものなのです。
 ですからお骨より、もっと故人を偲ぶことができるものがあれば、それをご縁とすることも結構なことであります。
posted by ryoho at 15:04| 会報記事ひろいよみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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